モートンが、今度の新曲について「街と大聖堂の合わさったもの」とか「街と大聖堂の両方を持つ」とか言っていますね。
私はうまい言い方だなーと思ったのですが、『Se og Hør』では謎に満ちた言い回しだと思われているようです。
しかし、いつも思うんですが、ノルウェーのマスメディアは、モートンの言っていることが解らないとか、わかりにくいとか言いますが…、本当は解る努力をしてないだけなんじゃないの?と。
確かに使う言葉に特徴はあるし、元妻であるカミーラが言っていたように「例え話をしてくれるけど、それで余計混乱する」というのは、あるだろうなとは思います。
でも、本当はちょっとわかりにくい程度なのに、「全然解らないよ」と言ってしまえばいいやというか。
実は昨日、NRKのドキュメンタリー『クリスチャンサンドのお坊さん』というのを見ました。
そこで、そのお坊さんの言っていたことと、モートンが「Brother」についてaftenpostenで話している内容と被るんですよね。
モートンがキリスト教なのは言うまでもないですが、彼の最近の発言は割と仏教っぽいなと思います。
個人的に、歌詞を見て最初に思ったのは、これは兄弟のことでもあるし、「兄弟のような友人」でもあると。
プラス、「人類は皆兄弟」という意味での歌詞にも捕らえることができる。
「大聖堂」というのは、要するに「神の愛」ですよね。起きることを全て受け入れ、祝福を見いだすような。
「街」は、私たちの日常生活にある、時に嫉妬や羨望にも負けてしまいそうになる「愛」。
aftenpostenで、モートンが言っているように、誰かから自分への愛というのはどういう形であれあり、でも、人間だから、同じ人が他の人に対して間違いを犯すこともある。
勿論、その逆も。
たとえば、裏切られたと思った相手が、他の誰かの恩人かもしれないし、その他の誰かは自分の恩人だったりとか。
そういう複雑で、どこか問題を抱え、葛藤しつつも、それでも「愛を持っていよう」と思う気持ちが、この「Brother」という曲には込められているのではないかな、と。
いわゆる世俗的な愛と神様の愛は全く別物のように思えるけれども、殆どの人は、それを行ったりきたりしながら、悩み、過ごしている。そういうったことを内包した曲だと思いました。