これは、VGアーカイブ(1998年6月11日)の記事です。
ハルケットがソクラテスになって戻ってくる
モートン・ハルケットは、8月にリリースされる「ソフィーの世界」でソクラテスとして登場し、その思慮深さで、思考を解釈する。
ここのところ、ハルケットは静かだった。ついに、彼は自分の口で語った
ついに口を開いた
しかし、彼はそう多くは語らなかった。いずれにせよ、共生のことでも、夜のバイクの事故でも、世界に通じるノルウェーのポップスター、Aquaのレネとの破局のことではない。
このインタビューでは、そういった件については一切扱わない。戦略上、同じ席についたモートンとマネージメント、両方に安心してもらった。
メディアは相当長いこと、彼のプロジェクトについて探っていたが、彼は決してプライベートを話さなかった。何を考えているのかについてもコメントをせず、彼が今、何を始めようとしているのかも明白にはみえなかった。
読んでないんだ
それで…:ソクラテスと「ソフィーの世界」。しかし、彼は全くよんでいなかった。ゆえに、「ソフィーの世界」は彼にとっては、演じる役割がソクラテスでなくとも、彼にはオススメだ。
思考するにあたって、哲学者ルネ・デカルトを引用する彼はまさにそのものだ。
―僕は文字の中で戯れることはあっても本は読まないんだ。退屈なんだよね。たぶん、我慢が足りないんだ
僕は、知的なものごととの共生とは、もっと違う方法が好みなんだ
―僕は知的であることと無学であることは、両立すると思っているんだよ。
と、彼は深みを持たせた
しかし、ソクラテスを歌うことは、面白い挑戦だった
―それは実際、タフなことだった。僕にとって、彼が投げかけた「ユーモアと悪意の表明の混合」を(歌で)仲介することは、とても大変だった。ソクラテスは、人間性の哀れな側面に首を突っ込んだんだ。
彼はそう言うと、しばしおしだまった。この文章が含む以上の可能性が、彼のいる成熟した現代では、ありえるのだ。
ソクラテスは、ついには毒杯を飲み干す羽目になた。ハルケットは、ミュージカルシーンが彼の未来の姿であることを拒否する決心をする前に、グラス一杯の水で満足した。
―僕はその方向に全くやりたいという衝動が起きないんだ、他の音楽表現に比べてこの形にはほとんど興味がない。
僕は借り物のミュージシャンではないし、今までももちろん、これからもそうなりたいとは思わない。
彼はきっぱりと表明した。
積み上げる
ハルケットは暫くの間、不在だったが、その間に曲を書きためていた。
曲は沢山書いたんだけど、それを出せる場所がなかったんだ。長い間、僕はレコード会社とよい契約が結べなくて、少しばかりストレスだったんだ。
僕はワイルドシードの後、少なくとも2枚レコードを出せるほど曲があるんだ。
一時的にリリースされたのは<<Vogts Villa>>だ。これは、ノルウェー語のアルバムで彼自身が興味深いプロジェクトだと言っているものだ。
―CD形式は非常につまらないよね、突如、彼は言った。
―まだ沢山の余地がある。3枚もしくは4枚以上のレコードの表現に対する、アーティストの活力に貢献することは無理だ。望ましいのは、頻繁なリリースとCDシングルの大きさの制限だ
僕はレコード会社の重要性について、疑問があるんだ。一つはアーティストとしての僕とみんなの間に、どれだけのものが自然に横たわっているかということ。システムは重たく、複雑でコストがかかりすぎる。
ここには大きな問題があって、混乱した早さの中で発展しているんだ。
異端者は、レコード産業の助けになるかもしれない、だが、ソクラテスだって異端であることを理由に非難されたのだ。
ともあれ、話はここでおしまい。